最近のニュースで繰り返し報じられていたアマゾンの森林火災のニュースは、報道においては、東北タイの洪水やその他のニュースにより、既に鎮火されてしまったようだ。ニュースでは報じられなくなっても(実際に鎮火したからなのだ、と願いたいところだが)、焼け焦げになってしまった大量の動物の死体や植物が証人となっている今回の甚大な被害によって、我々は大きな宿題を残されたように思う。
森林火災は自然界では珍しいことではない。これは間違いではないと断言しよう。さらには混合林や落葉フタバガキ林といった森の日常において重要なことでもあるのだ。多くの生き物が食べるのを待っている草や種は、山火事の火によって芽吹きが刺激されるのだ。これは事実である。しかし、これは、自然によって発火した場合の話であって、人の手に拠る火災の場合は当てはまらない。
この森が世界の「肺」にも相当するということで、世界中の人々がアマゾンの火事の広がりに心を痛めていたが、アマゾンの森林面積を最も多く有するブラジル、いやブラジル政府の対応は後手に回り、自分の家で起きた些細な事のように考えて、救済措置を取らなかった。僕も含めた多くの人々がなぜブラジル政府はこのような対応を獲るのか疑問に思わずにはいられなかった。
ついには、多くの報道機関が、今回の火事の原因は、政府が森の経済的な価値を上げようと森林を伐採する政策によって発生したものだと報じるに至った。
この政策に関する情報によると、ブラジルは、世界第3位の牛肉輸出国であり、現在の世界の牛肉消費需要が右肩上がりである状況に呼応させ、この輸出量の地位を維持するべく、肉牛飼育数を拡大しようとしている。牛肉の飼育数を増やせば、大豆等の飼料もより多く必要になる。これこそが、原生林を動物の飼料飼育用にしようとした理由である(これを書きながら、北部タイの山で飼料用のトウモロコシ畑のことを思わずにはいられなかった。
輸出量において一位であろうとするということは、そこから離れることができないものとなってしまう国もあるようだ。我々のタイにおいても、子どもの頃から家や学校で、タイは世界において毎年輸出量ナンバーワンになるべく多大な努力をしている、我々の国がこうした地位に就けたことは誇らしいことである、と常に教えられてきた。それがその地位を他国に明け渡すことになった時、僕の周りの大人たちを含む多くのタイ人が、首を切り落とされたというほどに、その負けについて悲しみ懸念した。
これほど熱心に取り組み、タイは毎年一位を獲得し続けた一方で、我々国民は一体何を報酬として得られたのだろうか。タイは、毎年大量の米を輸出しているが、タイは常に米の価格の下落問題に頭を悩ませており、米を質入れしなければなかった。農家は毎年米を多く売るものの、負債も増える一方で、八方塞がりだ。輸出量一位を保つため、最も多くの収穫量を得るべく栽培するとなれば、1年に栽培する回数も増える。そしてより多くの農薬を使用し、そればかりか、自分の耕作地を目いっぱい使用してしまうと、隠れて森を伐採した。栽培する農家も食べる消費者も健康を害し、自然も損失を被る。森林火災、洪水、水質汚染等のニュースは我々がよく見聞きするものだ。輸出量が多いと、食べる人もそれだけ多いと言えるのか?僕は未だに疑問に思い続けている。輸出量が増えるほど価格が安くなる、それは何か歯車が狂っている、おかしいということなのだ。
我々は、競い合う土俵は、量だけではないということを再確認しなければならないと思う。それは何も米に限ったことではない。その他の農作物についても同じことが言える。正しいか正しくないか。競合した結果、良い結果が得られない、又は元が取れないほどの低い結果しか得られないという場合に、そのようなことをやり続けるべきなのかどうか。
忘れてはならないのは、食物の輸出は、量だけではなく、質も重要であるということだ。丹精込めて農薬を使用せず安全に育てられ、味の良い農作物が収穫でき、全ての人に供給が十分できるものではないこれらの農作物を待ち焦がれている消費者が増えることの方が、タイにとって良いことではないのだろうか。
ライター
ピアンチャイ·マークミー
フリーライター
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