家族と一緒に海辺に出かけて、美味しいシーフード料理に舌鼓を打つ…その度に疑問があふれてくる。それは料理の味が落ちたせいではない。注文した料理の味は変わらぬ美味しさだ。サービスが悪くなったせいでもない。従業員たちは笑顔でサービスを提供してくれている。では、なぜ疑問が湧いてくるのか。それは、料理を注文するたびに、とても美味しいことに変わりはないが、毎回素材が小さくなっていて、これでは価格に見合わないから、もう注文しないようにしよう、と感じるさせられるからだ。中には、注文した次の瞬間、従業員から、こう短い答えが返ってくる。
「只今、ご用意できません」従業員は悲しそうに微笑んで、こう答えた。
今、タイの海に何が起こっているのか。初め、僕が魚介類のシーズンではない時に来てしまったせいで、漁師さんが獲ることができないのではないかと考えた。しかし、プラートゥー(サバの仲間)の売買量を抑えて、数を保存し、孫子の時代まで食べられるようにするべきだ、という論争についてのニュースや、タイの海の専門家の各論文等による警告が昨今のニュースで取り上げられるようになり、社会は夢から覚め現実を注視しなければならなくなった。
タイの海産物が底を突こうとしている。海洋資源が乱獲され、短時間で回復させることは困難だ。海は病み、救済が求められている。それこそが、海がずっと囁き続けて来たことなのだ。
海は我々に囁いた。それを受けて我々は何をしたのだろうか?根こそぎ獲るという漁をしている今、漁師さんの明日が無くなる、タイの海が豊かさを保つことが出来なくなる、そうしたことを繰り返し警告し、自分にも言い続けなければならない。
海だけに限ったことではない。土を見たらどうだろうか。起きていることに違いはない。農業でも同じように、一回の収穫での最大収量のためなら、大量に肥料をやり、農薬を使う。品質はどうだろうか。このことについて考えられているのかどうか、確信が持てない。大地は、 土が汚染されたことに怒り、多くの人々が自然に逆らう行いに非難している。大地は、収量が多すぎて価格破壊を起こすことになる日を待っているかもしれない。
肥料や除草剤、殺虫剤を多用することと、皮膚をカミソリで剃るように網を張って海洋資源を根こそぎえぐり獲るのと何が違うのだろうか。海は衰え、大地は腐り、厳しい状態だ。しかし、出口が全くないわけではない。僕やその他多くの人々が、海と大地が生き続けられるように、協力できることを模索している。
海で魚を獲りながら、養殖ができないだろうか。繁殖期には、自然に任せ、養殖していたものを代わりに消費できないだろうか。作物の栽培でも同じこと。有機作物を栽培することで、季節によっては栽培出来ないものもあるが、代わりに他のものを消費する。農薬を多用して日々土を傷つけるよりも良い。
ご飯を食べ過ぎれば、太る。薬を飲み過ぎれば、腎臓や肝臓が衰える。このように自分たちの体に例えて見ればよく分かるはずだ。
ここまで書いたことは全て、「今日、そして将来にも永続的に食べられるようにするには、季節的に消費できない期間には、自然を回復させるべく、食べたい欲求を抑えさえすれば可能な事だ。」と伝えるためだ。全てのものを年中通して食べられるようなところなどどこにも無いのだ。これは全ての人が理解するべきことなのだ
ライター
ピアンチャイ·マークミー
フリーライター
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