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有機食品で世の中を変えよう



38才という年になって、自分の人生の転換期になるとは思ってもみなかった…


私はごく普通の人と同じように、ピジット県の中流家庭に生まれ育った。そんな県、タイのどこにあったかしら、と戸惑う方が多いかと思うが、北部下方や中部上部とも言われるピジット県で、私は13年間育ってきた。北部と中央部を結ぶ県で、代表的な農業産品や食文化がはっきりとしていない。私自身はバンコクに住む人々同様にファーストフードが好きだったし、一方で地元の料理も好きだった。これこそが、私に38才での転換をもたらした根本的理由とも言えるものだ。



私は、1981年に中流家庭生まれ、ノッポで細身だったことから、無頓着で、食べて太ることを気にたことはあまりなかった。都会の人が食べているものの流行りを追うのが好きで、自分のように繋ぎ目の県に住む人間がフライドチキンやハンバーガー、ハム、ソーセージ、チーズを食べるのはすごく格好良いことと思っていた。そして進学のためバンコクに出て来てみると、ラーメンやタコス、ケーキなど思いつく限り世界のあらゆるところからの料理を容易に食べることが出来た。遂に血中脂肪が塞栓する症状が現れてしまい、これを1回目の生活転換ポイントと数える。

 

第1回転換ポイント:野菜やサラダを重点的に食べるようになった。野菜を食べなかったことが血中脂肪塞栓症の原因になったとも言えるだろう。政府の奨励キャンペーンに則って、食べる量全体の半部を野菜、残り半分をそれ以外のもの、として食べるようにした。始めてから8か月はコレステロール値が下がり、良くなったように見えた。しかし、腹痛が始まり、ひどい下痢に見舞われ、手の痺れが起きてしまった。これが第2回目の転換ポイントのサインだった。


第2回転換ポイント:野菜や果物、魚介類には重金属物質が含まれていると知った。ではどうしようか。自分で野菜を育てて食べるのは荷が重すぎる。こうした汚染物質の無い安全な野菜をどこで調達できるか情報を集めるようになった。自分で料理を作ることが出来ても、3食全ての材料を自分でまかなうのはとても難しい。だから素材を調達することに興味を持ち、真剣に探し始めた。


第3回転換ポイント:素材を探すようになってから2年が経つ頃、タイ国内の多くの場所で、信頼できる農家によるファーマーズマーケットがあることを知った。有機農園のココナッツを売る「ウィタヤーおじさん」に出会った。おじさんは、ファーマーズマーケットでの残飯を集めて肥料にしていた。この日から今日までが、最後の転換ポイントだ。



第4回転換ポイント:有機製品のゴミは有機肥料となって土に還る、化学ゴミは化学肥料となって土に還るのだ、と考えるようになった。この転換ポイントは、私が38才の時だった。日常生活において、知らず知らずのうちに、化学物質を作り出し、環境に再び戻す当事者になってしまっているかもしれない。そこで、化学物質に頼らなくて済むような生活を送ろう、と懸命に努力をした。


この時の転換は、自分が病気になったからというだけでなく、自分たちのゴミによって、病人を増やしたくないと思ったことによるものだ。プラスティックに替えて食器を使い、ゴミを分別し循環させ、自然の仕組みの中で分解し、出来る限り清潔に土や水に還す。個人で始めた小さなエネルギーかもしれないが、これが世界のあちこちから集まれば、世界を良くすることが出来ると期待している。土や水にもたらす化学物質を増やさず、安全に野菜を栽培したり家畜を飼育したりする農業が出来る場所を作り出せば、我々の生活もより安全になるのだ。


 

ライター

ナタポーン・ピンペット

クリエイティブ/話し手

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